Mag-log inその少し後。 窓の外は、夜が白み始める直前の、最も深い群青色に包まれていた。 私は誰もいないはずのアトリエの扉を開け、静かに足を踏み入れた。 照明の落ちた空間の中央で、完成したドレスが月光を浴びて青白く浮かび上がっている。 ――その傍らに、人影があった。「……怜司さん?」 思わず足が止まる。 もう、とっくに帰ったものだと思っていた。 彼は振り返らなかった。 しばらく黙ったままドレスを見つめ、それから低く言った。「来ると思っていた」 胸が、どくりと鳴る。 見透かされていたことへの悔しさと、こんな時間までここにいる彼への苛立ちと、説明のつかない熱が、いっぺんに込み上げた。「……確認しに来ただけです」「そうか」 短い返事。 そのくせ怜司さんは、ようやくこちらを振り向いた瞬間、私ではなく、まず私の手を見た。 指先が、ぴくりと強張る。 徹夜続きで針を持ち続けた指は、赤く腫れ、ところどころ薄く皮が剥けていた。 自分ではもう見慣れたはずの傷なのに、その視線に晒された途端、急にむき出しにされたみたいで、息が詰まる。「……っ」 その視線に晒された瞬間、張り詰めていたものが、ふいに音を立てて軋んだ。 徹夜続きの睡眠不足と、明日を前にした極度の緊張で、身体はもうとっくに限界だったのだと思う。 背筋に冷たい電流が走る。 私は眩暈を感じ、思わず作業台に手をついた。視界が激しく揺れ、膝が折れそうになったその時。 怜司さんの腕が、驚くほど穏やかに、私の身体を横から支えた。 この一ヶ月、容赦なく欠点を指摘されることには慣れていたのに、こんなふうに支えられるのは、少しも慣れない。 身体が強張り、肩に触れた熱に、息が止まる。「……怜司さん」 肩に触れる彼の掌の熱量に、息が止まった。 彼は私のボロボロになった指先をそっと取り、赤く腫れた肌を、慈しむような目で見つめた。「……お前は、よく頑張ってる」 その声は、いつもの氷のような響きが嘘のように、低く、熱を持っていた。 彼は私の指先に、祈るような、あるいは誓いのような軽いキスを落とした。 剥き出しの神経に触れられるような感覚に、私の心臓が跳ねる。「……ランウェイで、このドレスが世界に放たれたとき、お前のことをただの幸運な娘だなんて言う奴は、もう誰もいない。お前がその実力で、すべての口
深夜のルクソリア本社。アトリエの中央で、完成したドレスが静かに佇んでいた。 照明はすべて落とされている。けれど、大きな窓から差し込む東京の月光が、純白のシルクに走る「金の糸」を、まるで血管のように浮かび上がらせていた。 佐伯は、その数歩手前で足を止めていた。触れない。 もう、このドレスに自分の経験や技術が入り込む余地などないことを、誰よりも理解していた。 ポケットの中で、スマートフォンの画面が淡く光る。 この一ヶ月、送り迎えを両親に任せ、深夜に帰り早朝に出る生活を続けてきた。寝顔しか見ていない娘からの、一通のメッセージ。 『ママ、あしたパパといくね。きらきらのドレス、楽しみ』 たどたどしいボイスメッセージに、佐伯の目元がわずかに熱くなる。 この子のために、私は何を残せるだろう。 彼女は、憑き物が落ちたような穏やかな指つきで、返信を打った。 『ええ、明日、会場で待っているわ。終わったら、あなたの好きなものを作りましょうね』 送信ボタンを押した瞬間、何十年も自分を縛り付けていた「アウローラ」の呪縛が、音を立てて解けていくのを感じた。 「……見事だ、佐伯」 背後から、怜司の声が響く。佐伯は振り返らずに、ドレスを見つめたまま微笑んだ。 「久世代表。……私は明日、あの子が世界に立つのを見届けたら、デザイナーとしての鋏を置かせていただけませんか?」 怜司の眉が、わずかに動く。 沈黙がアトリエを支配した。彼はドレスを見つめ、それから佐伯の使い古された指先に視線を落とした。 「……降りるというのか。ルクソリアが、再び世界の頂点に返り咲くこの瞬間に」 「ええ。前線で削り合うのは、もう私の役割ではありません。……ようやく、あの子にバトンを渡せた。これからは、あの子のような新しい芽を育てる側に回りたいんです。……家で娘を待たせる時間も、少しだけ増やしてやりたい。身勝手な願いだとは承知していますが」 怜司はふっと視線を逸らし、窓の外の夜景を見つめた。 その背中には、冷徹な経営者としてではなく、長年の戦友に対する不器用な労いが滲んでいた。 「……いいだろう。この一ヶ月、いや、今日までよくやってくれた。お前がいなければ、ルクソリアの伝統は途絶えていたはずだ。デザイナーとしてのお前を失うのは正直惜しいが……その眼と技術は、
「モデルのキャスティングを変更しろ。 このドレスの重心を理解していない。0.5秒、歩幅が遅い」 深夜のスタジオ。モニターを見つめる怜司の横顔は、彫刻のように動かない。 演出会議は、もはやビジネスの域を超えた拷問だった。 誰かが資料をめくる音だけで肩が跳ねる。 徹夜続きの頭に、プロジェクターの白い光が針みたいに刺さった。 けれど、怜司は一度も疲れを見せなかった。 その静かな苛烈さが、場の全員の逃げ道を塞いでいた。「……代表。会場を東京国立博物館の石階段にするのは、あまりにリスクが高すぎます」 演出担当が震える声で進言する。「照明の跳ね返りが強すぎる。ドレスの繊細な光沢が飛んでしまう可能性が――」「なら、石の反射率を計算して照明を組み直せ。不可能とは言うな」 怜司は一蹴し、私の方を向いた。 その視線が来るたび、いまだに背筋は冷える。試されているのだと分かるから。 昔の私なら、ここで目を逸らしていた。間違えたくなくて、期待されたくなくて、曖昧に笑って逃げていた。 でも今は、もう逸らさない。 逸らした先にあったのは、いつだって「どうでもいい側の人間」として扱われる未来だったから。「いいか、澪。今回のランウェイは単なるショーじゃない。ルクソリアの『完全復活』を世界に刻み込むための、一回限りの戴冠式だ」 怜司は私のドレスを指し示し、冷徹に言葉を継いだ。「成瀬がブランドの『伝統』を証明し、お前がその『破壊』を提示する。欧州のバイヤーたちに、ルクソリア無しでは今後三年のトレンドは語れないと確信させる。それが俺の戦略だ」 彼は立ち上がり、作業台に広げられた私のドレスに指を這わせた。 布の上を滑る長い指先を見ていると、喉が渇く。美しさを値踏みする手つきなのに、同時に、私の中身まで暴こうとするみたいでもあった。「お前たちが競い合うことで、ドレスはより鋭くなる。……どちらかが欠けても、この伝説は完成しない。お前は俺の隣で、世界を跪かせるための刃になれ」 刃。 そう呼ばれた瞬間、胸の奥の何かが静かに軋んだ。 昔の私は、誰かの役に立てればそれでいいと思っていた。便利で、従順で、使いやすいままでいれば、捨てられないで済むと思っていた。 でも今は違う。 もう、誰かの手の中で都合よく消費されるために、美しくなりたいわけじゃない。 その言葉通り
中間発表からランウェイ当日までの一ヶ月、私の世界からは「昼」と「夜」の概念が消えた。視界にあるのは、網膜に焼き付いた純白のシルクと、指先に刺さる金の糸の残像。そして、耳元で鳴り続ける久世怜司の、低く冷徹な声だけだった。 アトリエの床には、没になった数千枚のデザイン画と、世界中から取り寄せたスワッチが雪のように積み重なっている。踏むたびに紙が乾いた音を立て、足首に絡みついた。コーヒーの冷えた匂いと、アイロンの熱で焦げた布の匂いが、もう肌に染みついて取れない。 私は、デザイナーという名の「軍師」であり、同時に「職人」でなければならなかった。 もちろん、最初からそんなことができたわけじゃない。 モデルの歩幅、照明のルクス、バイヤーへのノベルティ……怜司から求められる無数の決断に、私は最初、ただ立ち尽くすことしかできなかった。何かを答えようと口を開いても、喉の奥がひりつくだけで、言葉にならない。周囲のスタッフの視線が、一斉に私へ集まる。その重さだけで、胃がきりきりと縮んだ。 「……そんな怯えた目で俺を見るな。 判断できないなら、今すぐこのプロジェクトから降りろ」 怜司さんの罵声に近い叱咤を受けた瞬間、胸の奥で、昔の私がびくりと身を竦めた。 馬鹿にされるのが怖くて、否定される前に自分から身を引いて、便利に使われても笑ってやり過ごしてきた、あの頃の私。 あの私は、たぶん今も消えていない。どこかで静かに息をひそめて、傷つかないように膝を抱えている。 でも、もう前みたいに、あの子に全部を明け渡したりはしなかった。 私は泣く暇さえ惜しんで、過去のショーの資料を貪り、専門用語を叩き込んだ。 夜中の三時、充血した目で海外メゾンの映像を止めては巻き戻し、モデルのターンの角度をノートに書き写した。五時にはそのまま床で一時間だけ眠り、頬に紙の跡をつけたまま起き上がる。鏡を見る余裕なんてなかった。指先のささくれは裂け、針を持つたびにじんと熱を持ったけれど、痛みはむしろ遅れてくるほうが都合がよかった。 彼に認められたい一心で、私は一晩で演出プランを三通り書き直し、モデル一人一人の筋肉の動きまで叩き込んだリストを作成した。 一度目は「甘い」と切り捨てられ、二度目は「保身が透けて見える」と紙ごと机に戻された。 保身。 その言葉に、指先が
「……亘一さん」 名前を呼ぶと、男の肩がびくりと震えた。ゆっくりと顔が上がる。 その目に宿っていたものを見て、美玲は凍りついた。 ——怯え。 かつて、傲慢に振る舞っていた男の面影はどこにもなかった。 「紹介しよう」 怜司が、振り返らないまま静かに口を開く。 「君の過去だ」 室内の空気が、鋭く研ぎ澄まされる。 「彼は、いくつか問題を抱えていてね。社内調査の結果、横領と図面流出の証拠が揃いつつある」 怜司は感情を排した声で続け、デスクに置かれた資料に指を置いた。 「君の証言……彼が君を利用して白川を陥れようとした事実を正式に認めれば、君は不問に付そう。彼は完全に終わり、君は無罪放免だ。どうするかは、君に委ねる。君にはその権利がある」 怜司の言葉は、美玲に「泥をすべて黒崎に押し付けて生き残る道」を提示していた。 黒崎が、這いつくばるようにして美玲の足元に縋り付く。 「……頼む、美玲……! お前の証言次第なんだ! 俺が指示したと言えば、俺は……! 頼む、今回だけは助けてくれ……!」 かつて、すべての女を道具として扱い、高圧的に振る舞っていた男。その男が今、女の情けに縋って命乞いをしている。 美玲は、その醜態を冷ややかに見下ろしていた。 (……ああ、そうか) (この男は、最後まで私を自分と同じ種類の人間だと思っているのね) 美玲の中で、何かが静かに決まった。 彼女はゆっくりと怜司に向き直り、一寸の揺らぎもない声で告げた。 「……いいえ。証言は変えません。盗作も誹謗中傷も、彼の示唆ではなく、私の意思でやったことです」 室内の空気が、凍りついた。 怜司が、面白そうに眉を動かす。 黒崎は、信じられないものを見る目で美玲を仰ぎ見た。 「美玲……! あ、ありがとう! やっぱりお前は……お前だけは俺を……!」 歓喜に震え、美玲の手を取ろうとする黒崎。 だが、美玲はその手を、汚らわしいものを見るように一瞬で振り払った。 その瞳には、感謝を求める温かみなど微塵もなかった。 「勘違いしないで、亘一さん。……あなたのためじゃないわ」 美玲の声は、氷のように冷たく、誇り高く響いた。 「私がやったと言えば、この作品は汚れても私のもの。 でも、あなたに唆されたと言えば、私の才能はあなたの付属品に
ルクソリア本社 デザイン部。 アトリエの空気は、粉塵のように舞う絹の糸くずで白く霞んでいた。 私と佐伯は、ただ一着のドレスに向き合っていた。 私は、トルソーをゆっくりと回転させた。 純白のドレスは、本来ならば完璧な曲線を描くはずだった。 だが今は、背面から大胆に裂かれた布の隙間から、深紅のシルクがまるで傷口のように覗いている。 その瞬間、背後に立っていた佐伯さんの気配が、凍りついたように静止した。 「…………」 長い沈黙が、アトリエを支配する。 佐伯の視線は、純白の表地の裂け目から、鮮烈に――剥き出しの心臓のように覗く「深紅のシルク」に縫い付けられていた。 それはかつて、彼女が『アウローラ』を創り上げた際、 「ルクソリアに相応しくない」と自ら切り捨て、裏地に封印したはずの、彼女自身の『欲』そのものだった。 (憧れの人のドレスを、自分の手でバラバラに切り刻んでしまった) (佐伯さんは、どう思うだろう) 怒るだろうか。それとも。 ……心臓が、ずっとうるさく暴れている。 佐伯が、ゆっくりと右手を伸ばした。 指先が赤のシルクに触れる直前、その手が、目に見えて激しく震えだした。 彼女は自分の手を見つめ、もう片方の手でそれを強く押さえつけた。爪が食い込むほどに。 佐伯は、赤いシルクを見つめたまま、長い沈黙を落とした。 「……私のドレスを、殺したのね」 声は、低く、硬い。 彼女の視線が、ドレスから私へと移る。 その瞳には、射抜くような鋭さと、何十年も暗闇に閉じ込めていた自分を見つけ出された者の、剥き出しの戦慄が混在していた。 「……及第点と言われたあの時、私、怖かったんです」 私は逃げずに、彼女の視線を受け止めた。 声が掠れる。 それでも、言わずにはおれなかった。 「佐伯さんが遺した『正解』を壊すのが。……でも、解体して分かりました」 一度、息を吸う。 「あなたは、この赤を、この地獄を――閉じ込めるために残したんじゃない。解き放つために残したんじゃないかって」 佐伯は言葉を返さない。 ただ、激しく上下する肩が、彼女の内側の激動を物語っていた。 彼女はふっと視線を落とし、自らの裁縫箱の奥底から、鈍い輝きを放つ「金の糸」を取り出した。 彼女の指はまだ震えていたが